「医療とドイツ語の意外な関係」~上杉先生をお招きして~
先日の講義では、特別講師として現役の外科医でいらっしゃる、旭川医科大学消化器外科 外科専門医の上杉優衣先生に来ていただきました。
上杉先生は普段、消化器外科医として手術室で胃や大腸などの手術をされたり、外来で患者さんの診療をされたりと、日々多くの命と向き合う素晴らしいお仕事をされています。
プライベートでは二児の母でもあり、実は私とは「ママ友」というご縁で、今回登壇をお願いしました。
講義のテーマは「なぜ日本の医療現場にドイツ語が多いのか?」という、私にとっても非常に興味深いものでした。
旭川医科大学消化器外科 外科専門医の上杉優衣先生のプロフィール
2児(2歳、4歳男児)の母
趣味:麻雀、アニメ、ゲーム、鬼ごっこ
【学歴】
札幌北高校卒業
旭川医科大学医学部医学科卒業
【経歴】
市立函館病院(研究医)
旭川医科大学消化器外科入局
札幌徳洲会病院外科
旭川厚生病院外科
旭川医科大学病院 消化器外科消化管チーム
札幌北楡病院外科
はざま小児科クリニック(実家)
登別すずらん病院外科
札幌ライラック病院外科
日本語になったドイツ語──医療現場のリアル
『神様のカルテ』や『ブラックペアン』といった医療ドラマのタイトルや作品内に登場する言葉には、ドイツ語由来のものが多く含まれています。
先生は、「ギプス」「カルテ」「バイタル」など、今も医療現場で日常的に使われているカタカナ語をいくつも挙げてくれました。
皆さんも当たり前のように使っている「カルテ」や、骨折したときに使う「ギプス」、健康診断で撮る「レントゲン」。これらが実は英語ではなく、すべてドイツ語由来の言葉だと聞いて、驚いた人も多かったのではないでしょうか。
先生のお話によると、他にも「アレルギー」や手術で使う器具の名前(クーパー、モスキート、コッヘル)など、医療現場には今もドイツ語がたくさん残っているそうです。
カタカナ語
原語(ドイツ語)
意味・用途
備考
ギプス
Gips
骨折時に用いる固定具
日常会話でも使われるほど定着
カルテ
Karte
患者の診療記録
診療録と法的に同一視される
バイタル
Vitalzeichen
血圧・脈拍・体温などの生命徴候
英語のVital Signsと混同されがちだが語源は独語
ガーゼ
Gaze
包帯や止血に使う布
仏語起源だが独語経由で定着
クランケ
Kranke
患者
現代ではあまり使われない
シュプール
Spur
MRI画像などの残像
「痕跡」の意味
ムンテラ
Mundtherapie
口頭による説明・説得
医師と患者のコミュニケーション場面で使用
ちなみにアレルギー(Allergie)は英語圏では「allergy(アラジー)」、エネルギー(Energie)は英語圏では「energy(エナジー)」と発音しないと通じません。
言語による発音の違いを具体的に体感する良い機会になったと思います。
また、「レントゲン」は、X線を発見したドイツの物理学者ヴィルヘルム・レントゲン氏の名前に由来するという背景まで教えていただき、言葉の裏にある歴史の深さを感じました。
なぜドイツ語?──医学とドイツ語の歴史的背景
現代の日本における医療関連教育や文献の大半は英語をベースにしています。
しかし、かつて日本が近代医学を導入しようとした明治時代、主に導入されたのはドイツ医学でした。その歴史を遡ると、日本の医学の発展にドイツが深く関わっていることがよく分かりました。
• 江戸時代:日本に西洋医学を伝えたシーボルトは、実はオランダ人ではなくドイツ人だったこと。
• 明治時代:日本政府が、研究を重視するドイツの医学を正式に国の基本方針として採用したこと。
• 医学教育:その後約100年もの間、日本の医学教育は教科書も講義もドイツ語で行われていたこと。
このような歴史があったからこそ、今も私たちの身近な医療現場にドイツ語が息づいているようです。
江戸時代:シーボルトの来日
当時、日本は「鎖国」政策を取っていました。しかし、長崎の出島に限ってオランダとの交易が許されており、オランダ人医師や商人が日本に医学書や科学書を持ち込むことで、医療・化学の知識が伝えられました。
この時期に日本人が学んでいたのが、いわゆる「蘭学(らんがく)」です。
しかし、当時日本にやって来て医学を伝えた医師シーボルトは、オランダ人と偽っていましたが、実はドイツ人でした。
彼がもたらした医学知識や医学書はドイツのものが中心だったため、この時点で既にドイツ医学が日本の医学の基礎に影響を与えていました。
明治時代:ドイツ医学の正式採用
鎖国が終わった明治時代、日本政府は本格的に導入する西洋医学について、イギリス医学とドイツ医学のどちらを選ぶかで悩みました。
臨床(患者の治療)を重視するイギリス医学に対し、ドイツ医学は研究を重視する理論派でした。
最終的に、岩佐純(いわさじゅん)や佐野常民(さのつねたみ)といった医師たちが「世界で最も優れているのはドイツ医学だ」と強く主張し、政府を説得した結果、日本はドイツ医学を正式に採用することを決定しました。
ドイツ語で行われた医学教育
この決定により、当時の医学教育は、教科書も講義もそのほとんどがドイツ語で行われることになりました。
ドイツから教授を招き、日本の医学生はドイツ語を習得しなければ医師になれないという状況が約100年続きました。
第二次世界大戦後、日本の医学はアメリカ医学が主流となりましたが、それまでに築かれたドイツ医学の土台は非常に強固で、その名残として今も多くのドイツ語由来の用語が医療現場で使われ続けているのです。
ちなみに、私たちの日常生活で使われる言葉の中にも、ドイツ語由来のものはたくさんあります。
• アルバイト(Arbeit): 英語では「Part-time job」です。
• バウムクーヘン(Baumkuchen)
• マイスター(Meister)
• カッター(Kutter)
• リュックサック(Rucksack)
カルチャーとしてのドイツ語医療用語
先生は「言葉は文化です」とおっしゃっていましたが、それが特に感じられたのがこのパートです。
医師同士が交わす「カルテ記載済みです」「バイタル異常あり」といった会話の中に、すでにドイツ語が日本語の一部として溶け込んでいる。
学生時代から自然に使うことで、医療人としての“共通言語”になっていく
──そんな話に、会場もうなずきながら聞き入っていました。
時代の流れとともに、使われなくなる言葉も当然あります。
「クランケ」「ムンテラ」などは、いまでは一部のベテランしか使わなくなっているとのこと。
逆に、「ギプス」や「カルテ」のように、一般社会にも浸透してしまった言葉は、むしろ“死語になりにくい”という面もあるそうです。
言葉の寿命と定着のメカニズム──これはかなり面白いテーマでした。
言葉の裏にある歴史を知ること
言葉には、必ず“歴史”があります。それは制度の歴史であり、教育の歴史であり、何より人の営みの歴史です。
今回、専門分野の第一線で活躍されている方から直接お話を伺うことで、学問が社会とどう結びついているのかを具体的に知る、素晴らしい機会になったことと思います。
この講義が、皆さんの視野を広げ、ドイツ語学習への新たなモチベーションに繋がれば嬉しく思います。
上杉先生、素晴らしい講義をありがとうございました!
この記事を通して、少しでも多くの方が「言葉の背景」に目を向けるきっかけになれば幸いです。